教員の常識 社会人の常識

1990年代前半に、大学を中退して助教として響教授に採用していただいた。この時点で、社会人としての常識は乏しいものと当然考えられ、これから身に着けていかなければならない。響教授は大手企業の研究所出身である。民間の出身として本人が言うには、多くの大学教員は会社勤めの経験がないので社会常識が無く、その点では自分は民間企業で常識を身に着けてきたという。「言われたことをするのは誰でもできる、言われなくても自分で雑務を見つけてするよう心掛けよ。それが組織では評価される。」と最初に言われた。他大学に応募するときは雑務はほとんど評価されないのではないかと思ったが、所属組織に貢献することは大事だ。就職した大学で昇進し続けるというのは、工学部の発想だろうか。工学部は実験機材に縛られるため移籍し辛いというのはあるが、情報系なら身軽だと思う。さて、私の行政能力の低さからか、積極的に雑務を見つけて行う状況にはならなかった。響教授からは「お前は言われたことしかしない。」とよく叱られた。

後に研究所出身の准教授が2名着任した。響教授と同じく民間の出身なので常識があるはずだが、両者ともに非常識であった。常識の分からない私であっても、酷い非常識は理解できる。研究所出身というのは、研究所で務まらないレベルの非常識だったのか。締め切りを守るというのは社会人としての常識だろう。学生には提出物の期限を守るよう厳しく求め、期限内でなければ受理しない教員もいる。一方で、教員自身が締め切りを守らないのは容認される。締め切りを守らないというくらいたかが知れていると思うかもしれないが、尋常ではないレベルだった。個人の提出物ではなく、成績など重要な提出物の学科としての取りまとめで締め切りを守らない。締め切りに間近なって事務から催促が来る。事務はデッドラインに少し余裕をもって締め切りを設けている。だから、締め切りに遅れてもまだ間に合うわけだが、デッドラインを過ぎると留年という事態も起こりかねない重要な提出物だ。締め切りになってようやくアナウンスがある。しかも、金曜日の夕方にアナウンスされて、月曜日の正午までに提出である。フォーマットもその時に渡される。当然、土日は潰される。たまたま出張しているともう間に合わない。主任にあまりにも酷いのではないですかと指導してくれるようお願いしたこともあるが、事務から年間のスケジュールが渡されているから各自で準備できるはずであり、個人の責任であると叱られた。どうやら、彼には頭が上がらないらしい。これが許されるなら、求められたことだけを確実に遂行している私が責められる筋合いではないと思う。彼らの行政能力にはかなり問題があったが、研究はずば抜けていたので早く教授になることが出来た。一方、学科のために雑務をこなす教員は昇進できなかった。学内の行政や教育に労力を注いでも、その時は評判が上がっても記録には残らない。何年かして昇進の候補に挙がる年齢になったときにその時の貢献は評価されないだろう。研究業績なら記録として残る。20代での研究業績すら教授昇進時の材料としてカウントされる。結局は、研究以外の業務をいい加減にして、研究業績を積んだ教員の勝ちだった。

響教授の言うことは理にはかなっているので常識人だと思っていて、非常識な教員の一人だと気づくまでにしばらくかかった。どうも非常識な教員ほど説教をしたがるようだ。こういう教員たちを見て、自分が常識を身に着けていない事実だけは常に意識していくことにした。